国税庁の有識者会議が、非上場株式の相続税評価を「残余利益方式」に一本化する案を示しました。1964年以来となる抜本的な見直しです。2026年10月には首相や与党幹部から慎重論が相次ぎ、「結局は実現しないのでは」という見方も出ています。しかし、この案は「全員が増税になる改正」でも「政治が止めれば終わる話」でもありません。本稿では、制度の中身、功罪、落とし穴、政治の動きを整理し、課税の公平性・理論・オーナー・成長企業・政策・実務の6つの視点から評価します。
目次
残余利益方式とは何か、現行方式と何が違うのか
残余利益方式とは、会社の簿価純資産(帳簿上の純資産)を土台に、「株主が最低限求める利回りを超えて稼ぐ利益」(残余利益)を加減して株価を求める方法です。国税庁案では、課税時期前5年の正常利益(臨時的な損益を除いた利益)から残余利益を計算し、5年分の現在価値だけを加算します。それ以降の価値(ターミナルバリュー)は加えません。数値は法人税申告書(別表四・別表五(一))から取り、還元率(割引率)は上場株式のデータをもとに国税庁が定期的に公表する方向です。
| 項目 | 現行の評価方式 | 国税庁案(残余利益方式) |
|---|---|---|
| 会社規模区分 | 大会社・中会社・小会社で評価方法が異なる | 区分を廃止し原則として一本化 |
| 主な評価方法 | 類似業種比準方式と純資産価額方式の併用 | 簿価純資産+5年分の残余利益 |
| 土地等の扱い | 純資産価額方式では相続税評価額(時価)に洗い替え | 事業用土地等も帳簿価額のまま |
| 使う数値 | 上場類似業種の株価・配当・利益・純資産 | 自社の申告書の利益・純資産と公表還元率 |
| 未確定の論点 | - | しんしゃく率(評価の割引率)、適用時期、経過措置 |
なぜ国税庁は見直すのか――「功」の部分
出発点は、会計検査院の指摘です。規模の大きい会社ほど類似業種比準方式による評価額が純資産に比べて低くなる傾向がある、という内容でした。国税庁の試算でも、純資産価額を100とした現行評価の水準は、大会社38.2、中会社53.4、小会社63.8です。規模が大きいほど評価が割安になっている構造が数字で示されています。国税庁は、会社規模を意図的に変えて評価額を下げるスキームを過去10年で14件把握しています。規模区分をなくせば、こうした「区分の境目を狙う対策」は成り立たなくなります。
理論面でも一定の支持があります。有識者会議では「M&A実務で用いる手法と極めて似ており違和感がない」「会計数値より操作されにくい申告書の数値を使うのは妥当」「納税者が自分で計算して申告できる」といった意見が出ました。さらに見落とされがちですが、小規模な会社では評価が下がる会社のほうが多いという試算も出ています。
誰の負担が、どれだけ変わるのか
第6回会議(2026年9月16日)で示された試算(還元率8%・加算期間5年)は次のとおりです。
| 区分 | 現行比の中央値 | 現行以下となる会社の割合 |
|---|---|---|
| 大会社(しんしゃく率0.7) | +50.3% | 28.1% |
| 大会社(しんしゃく率1.0) | +114.7% | - |
| 小会社(しんしゃく率0.7) | △31.6% | 78.4% |
| 全体(しんしゃく率0.8) | +2.3% | 48.6% |
全体で見ると、評価額はほぼ横ばいです。しかし中身は「大会社は大幅増、小会社は減」という再配分です。日本商工会議所の意見書では、一定規模以上の中小企業で評価額が現行の2倍から5倍近くになる試算が示されました。なお、これらは中央値であり、個別企業への影響を示すものではありません。同じ規模でも、収益力が高く純資産の厚い会社ほど上振れする設計です。
制度設計に潜む5つの落とし穴
試算の数字の陰に、実務上見落とされやすい論点があります。
- 子会社株式の評価:親会社が持つ子会社株式を取得原価で評価すると、グループの実力が反映されません。委員からは連結ベースで評価すべきとの意見が多く出ています。中小企業庁も、子会社を持つ企業で評価額が著しく増えることを懸念しています。
- 5年打ち切りと一律の還元率:理論上は無限期間の利益を見るモデルを5年で区切り、上場株式の期待収益率を非上場のオーナー企業にも一律に当てはめます。業種や成長段階による違いが反映されにくい点が、委員からも問われています。
- 土地の含み益と簿価:事業用土地等を帳簿価額のまま使うため、古くから土地を持つ会社では評価が下がる一方、最近取得した会社との間で新たな不均衡が生じえます。「財産を法人に入れただけで評価が下がる」ことへの懸念も出ています。
- 資産管理会社の判定の変更:特定資産の帳簿価額が総資産の70%以上、または運用収入が総収入の75%以上の会社を純資産価額方式で評価する案です。運転資金としての現預金の扱いは未整理で、現預金の厚い事業会社は判定に注意が必要です。
- 事業承継税制が届かない会社:中堅企業は事業承継税制(納税猶予制度)の対象外です。中小企業でも長期の管理負担から使える会社は限られます。評価が上がっても税制で吸収できない層が生じます。
このほか、中小企業庁は、現行方式を前提に立てた承継計画が覆されること(予見可能性の毀損)や、スタートアップのストックオプション税制への波及も指摘しています。
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政治家・経済団体は何と言っているのか
2026年9月以降、見直し案への反応は急速に政治の場へ広がりました。
| 時期 | 発言者・主体 | 主な発言・内容 |
|---|---|---|
| 2026年9月 | 日本商工会議所 | 評価体系の抜本変更に反対。増税で「事業承継が崩壊」 |
| 2026年9月16日 | 中小企業庁ほか | 拙速な結論を避け、約175万社への影響を検証すべきとの意見書 |
| 2026年10月 | 高市首相 | 「ゼロベースで検討」 |
| 2026年10月 | 片山財務相 | 「事業承継税制と合わせて検討」 |
| 2026年10月 | 岸田元首相 | 「成長に逆行」 |
| 2026年10月 | 自民党の議員連盟 | 「結論ありきとせず検討を」と決議 |
| 2026年10月22日 | 自民党 日本成長戦略本部・中小企業政策調査会 | 「これまでの成長戦略と逆行する」との懸念が相次ぐ |
注目すべきは、首相も財務相も「見直しをやめる」とは言っていない点です。「ゼロベース」は既定路線にとらわれないという意味であり、「事業承継税制と合わせて」は、評価の見直しと負担軽減策を一体で設計する方向を示しています。一方、国税庁は第4回会議で「増税を目的とするものではない」と説明しています。今後は自民党税制調査会でも論点となり、政治との調整の中で設計が修正されていくことになります。
6つの視点で評価するとどうなるか
| 視点 | 評価 | 理由 |
|---|---|---|
| 課税の公平性 | ○ | 規模による評価の歪みと、区分を狙った節税を是正できる |
| 理論的な妥当性 | △ | 企業価値評価の考え方に近いが、5年打ち切り・一律還元率の簡便化に検証不足の指摘 |
| 小規模企業のオーナー | ○ | 小会社の約8割で評価が下がる試算 |
| 中堅・成長企業 | × | 評価額が大幅に増え、事業承継税制の対象外の会社も多い |
| 政策との整合性 | × | 「稼ぐ力」強化や賃上げ・成長投資の方針と逆行するとの批判 |
| 実務・予見可能性 | △ | 計算は簡明になるが、適用時期・経過措置が未定で計画が立てにくい |
つまり、この案は「公平性と簡明さ」を取る代わりに、「成長企業の負担」と「予見可能性」を犠牲にしている改正です。評価が分かれるのは当然で、どちらか一方だけを見て賛否を決めるべきではありません。
政治が反発しているなら、様子見でよいのか
実務家の一部には、「政治の反発が強い以上、見直しは大幅に後退するので、今は動かなくてよい」という見方があります。たしかに、しんしゃく率は第7回以降の議論で、適用時期も決まっていません。拙速な対策で余計なコストをかける必要はない、という主張にも一理あります。
それでも私たちは、様子見ではなく「試算だけは今行う」べきだと考えます。理由は3つです。第1に、見直しの出発点が会計検査院の指摘という公的なものであり、「何も変えない」という結論は取りにくいことです。第2に、政治の関与は、中止よりも、しんしゃく率の緩和、事業承継税制の拡充、経過措置といった「設計の修正」として効く可能性が高いことです。第3に、上がる側の会社にとって、現行ルールのもとで承継を前倒しするか否かは、適用時期が決まってからでは間に合わない場合があることです。特に特例承継計画の提出期限(2027年9月30日)を見据える会社は、判断の時間が限られています。
まとめ
- 残余利益方式は、規模による評価の歪みを正す「功」と、成長企業・グループ企業の負担を大きく増やす「罪」をあわせ持つ改正案です。
- 全体ではほぼ横ばいでも、大会社は大幅増、小会社は約8割が評価減という再配分が起きます。
- 子会社株式、5年打ち切り、土地の簿価、資産管理会社の判定、事業承継税制の対象外という5つの落とし穴に注意が必要です。
- 首相・与党の発言は「中止」ではなく「修正」を示唆しています。自社がどちら側かを今のうちに試算し、承継時期の判断材料をそろえてください。
本稿は、非上場株式の相続税評価見直し(残余利益方式)に関する2026年10月時点の一般的な解説であり、制度の内容・試算・適用時期は今後の議論により変わる可能性があります。個別の案件における判断・結果を保証するものではありません。実際の案件では、個別の事情を踏まえ、専門家への確認を行ってください。
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